6.眩惑 −2

長い前髪の奥から覗く漆黒の瞳。

直人はその中に空間ごと引き込まれるような感覚を覚える。

足元に激しい水流が打ち付け、廊下の窓が破られると、一気に大量の水が流れ込んでくる。

「うわぁぁぁ!」

直人はなす術なくその水流に押し流され、亜夢も同じようにその水流の中に飲み込まれていく。

直人は薄れゆく意識の中、水流の中で微かに灯る明かりが見える。

水流に翻弄されながらもその炎は僅な希望を持って生きようとしている…

直人は何故かこの炎を消してはならない、そう直感し、必死に水流を掻き分けて炎へ近づこうとする。

だが、進んでも進んでも水流はその行く手を阻む。

…なぜ、なぜなんだ…

…ぁむぅ…ぃ…り…

直人は無意識のうちから込み上げる言葉を口にしていた。

直人の言葉をかき消すように一層の水流が直人を襲う。身構えたその瞬間…

あたりは、何事もなかったかのように元の廊下に戻っている。

亜夢は何かを訴えかけるように直人の方を見つめたまま、その場で膝から崩れ落ちた。

「!」

咄嗟に直人は駆け寄り、亜夢の上体を抱きおこし、身を揺すった。

「亜夢さん!しっかり!亜夢さん!」

声をかけるが、反応はない。
半目のまま意識を失っている。呼吸は浅く、苦しげだ。

「亜夢さん!」

「どうしたの!?」

背後から真世が声をかけてきた。先程病室前ですれ違った看護師も一緒だ。
実世の容態が落ち着き、部屋から出てきたところで直人の声に気づいたようだ。

「わからない、急に倒れて…。」

「どいてちょうだい。」
その短髪の女性看護師は短く言うと、素早く直人と入れ替わり、脈拍、呼吸、瞳孔の確認を行い、PSI パルスチェッカーで身体スキャンを行う。

「真世、担架を持ってきて!」チェッカーの波形をにらみながら真世に指示を出す。真世はフロア毎に備え付けてある担架をとりに走る。

「PSI パルスに対する身体の過剰反応が出ているわね。検査室に運ぶわ。」

真世が担架を転がしてすぐに戻ってきた。

「手伝って。」亜夢の上体を抱えながら指示する看護師に従い、直人は亜夢の脚を抱え、看護師と共に亜夢を担架に乗せる。

看護師はそのまま亜夢を連れて検査室へ足早に去っていく。

「何があったの?風間くん?」

看護師の後ろ姿を見送りながら、真世は尋ねた。自分にも今起こったことが何だったのか全くわからない。

「風間くん?」

「…」

直人は、心配げに窺う真世に無言で答える他なかった。

IN-PSID附属病院のエントランスは、先程までとは打って変わり、間接照明が幽玄な空間を作り出している。

「…お引っ越しでお疲れのところ、遅くまでごめんなさいね。神取先生。」

病院内の案内に予定以上の時間がかかってしまった。
エントランスまで神取を見送りに付き添ってきた貴美子は、神取を気遣う。

「いえ、ありがとうございます。やはり世界最先端を行くIN-PSID…大変刺激的でした。
明日からしっかり学ばせて頂きます。」

貴美子は案内でのやり取りから、神取が考えていた以上に優秀な人材である事を感じ取っていた。

「こちらも先生のような優秀な方に来て頂いて助かります。研修という名目ですが、一スタッフとして業務に入ってもらうつもりでいますので…」

話の途中で、テレパス通信のコールが貴美子の頭の中で響いた。
神取に「失礼…」と短く断りを告げ、貴美子は直ぐに通信に応じる。軽く手を広げると指輪状の通信機が手のひらに通信元の相手を映し出す。

相手の音声は脳内に響く仕組みである。
(テレパス通信は完全に脳波のみで会話する事も技術的に可能であるが、メッセージの発信は、声音を用いる。声に出した方が伝えるべき内容を吟味できる為、この方式を採っているものが一般的。結界場や特殊PSI エネルギー場では通信確立が困難である事もあり、そうした場には従来の脳波非介在型インターフェース通信が用いられる事もある。)

「先生、亜夢が倒れました!」

「えっ!?」思わず大声で反応する貴美子。
訝しげに窺い見る神取に手で詫び、その視線から逃げるように通信に応じ続ける。

「それで…ええ…わかったわ…」

「急患ですか?」通信を切った貴美子に神取が訊ねる。

「え…ええ。患者の容態が急変したようで…ごめんなさい。ここで失礼させてもらいます。」

「わかりました。それではまた明日…」

「ええ。」短く挨拶をやり取りすると、貴美子は踵を返し、エレベーターに駆け込んだ。

吹き抜けのエントランスからは、貴美子の行き先が良く見える。神取は貴美子を目で追う。貴美子は神取の視線に気づく事なく、2階の療養施設へ向かう渡り廊下の方へと姿を消した。

…あの先は結界領域だ…

エントランスの照明が届かない影の一角から語りかける声。

…もう戻ったのか?…

神取はその声を的確に聴き取り、無言のまま心の声で応じる。

…あの二人もあの結界の先…

…そうか、で…おめおめと引き下がって来たと?

…うっ…

男のような声の主はそこで言葉に詰まる。

…旦那様、急いては事を仕損じます。妾に策が…

女らしき声が神取に擦り寄るような声で持ちかける。

…ほう…そなたの方は何か収穫があったか?…

…はい…旦那様、妾をあの娘にもう一度…

…ふむ…よかろう。で…そなたは如何する?

…では、拙者も再びあの小僧に…

その時、渡り廊下の方から話し声が聞こえて来た。

先程の医院長の孫娘と風間と呼ばれた青年だ。それを認めた神取は、その影なる存在に命ずる。

…よし、行け!…

影は壁面を伝い二人の来る方へと向かう。
それを見送ると神取は二人に気取られないうちに病院を後にした。

二人はしばし渡り廊下で話し込んでいた。

「ごめんね、結局ここまで送ってもらって…。」

倒れた亜夢を見送った後、実世も落ち着いたということで、真世は直人に付き添ってきた。

「いいの。私も久しぶりに風間くんと話せて楽しかったし。」

「そ…そう。なら良かった…。」

何事もなかったら直人にとっては夢のような時間だった。しかし…

「気になる…?よね、やっぱり…。」

後ろ髪を引かれるように、直人は閉ざされた療養施設への扉を見つめていた。

「うん…あの子…まさか俺のせいで…」

「風間くん、霊感みたいなのあるでしょ。そのせいで変なの見ただけだよ。」

真世は、ここまで送りながら、亜夢が現れ、幻覚を見た事を直人から聞いていた。

「そうだね…。」

「大丈夫よ。おばあちゃんも来てくれたんだし。」

貴美子とは今しがたすれ違ったばかりだ。

「私も、もう少しママのところにいるから。何か状況わかったら連絡するよ。それじゃ…」

真世が施設の方へ戻ろうとしたその時、直人はまたあの妙な感覚に襲われる。思わず周囲を見回す直人。

「…?どうしたの?」

「…まただ…さっきから何かに見られているような変な感じがして…」

「えっ、何それ…怖いこと言わないでよ…。」

先程の幻覚の話もあったせいか、真世は怯えたようにあたりを見渡す。霊魂に関して知見が増した時代ではあっても、怖いものは怖い…。真世はその手の類は苦手なのだ。

「ご…ごめん!気のせいだよ、気のせい。」

慌てて取り繕う直人。

「もう!それじゃ、またね。」

「うん…じゃ、また。」

セキュリティカメラが真世を再度捉えようとしたその刹那。

直人は焚き染めた香のような香りを感じる。

真世は何も感じていない様子。
セキュリティチェックも何も感知せずに扉を開き、真世を招き入れた。

…なんと!…どういうことだ…

…ふふふ…この娘だからさ…

…なに?…

…妾はしばらくこの娘に憑く…旦那様にもそう伝えておくれ…

…相わかった…

何も気づかない真世は、閉まる扉の向こうで直人に手を振り続けた。

直人は何者かの気配を怪訝に思いながらも、真世に軽く手振りを返し、扉の奥に真世の姿が見えなくなると、その場を後にした。

すっかり夜の闇に包まれたエントランスホールの無機質な空気が直人を包み込むように降りてくる。

…世界が蠢いている…いつも、わからないところで…

直人は何かを予感せずにはいられなかった。

PSIシンドローム長期療養施設内、集中治療室。精密検査室も兼ねており、亜夢はここに運び込まれている。昼、ここから出された亜夢は再びこの部屋に戻ってきた。

亜夢は半透明な半球ドーム状の保護結界カプセルに収容され、精密検査にかけられている。

集中治療室のコントロールルームでは、数名の医師らと貴美子が検査の状況を見守っていた。

テレパス通信のコールが頭の中に響く。

手のひらを広げると、夫の姿が映し出された。

「知らせは聞いた。どういうことだ?」

貴美子は無言で首を横に振る。返答できるような回答を持ち合わせてはいなかった。

「まさか…また深層無意識からの…」

「いいえ、あの時の症状とは違う…。」

貴美子はコントロールルームからカプセルの中に入れられた亜夢を見つめながら呟く。

「バイタルが徐々に下降している。再び眠ろうとしているかのよう…。」

「例の昏睡か?」

「ええ…けれど今度の眠りは永遠の眠り。」

「!」

「あのインナーチャイルドには生命力を感じたわ…でも今は、ただ死を受け入れている…そんな感じがするの…。」

「タナトス…か。」

ギリシア神話の死を神格化した神にして、死に向かう欲動を表すその言葉が、不意に藤川の脳裏をよぎる。

「あの時点では、インナーチャイルドを抑制するしかなかった…けど、もしかしたら…」

「激しい生への渇望と死への欲動…その葛藤がその子の魂の本質だと?」

貴美子は、沈黙で答える。
亜夢は倒れた際のショック症状は収まり、見た目は落ち着いた様子で眠りについている。
その表情を見つめながら、貴美子は決断する。

「…もう一度、あの子のインナースペースにアクセスできないかしら…今ならまだ…」

「貴美子?」

妻の申し入れに藤川は驚きの色を見せる。

「意外かしら?…でも残念ながら、このままでは延命措置を施すくらいしか出来ない…。」

「…実世のように。」

「実世…。」我が子の名を胸が詰まる思いで呟く藤川。

貴美子は、実世が倒れた時、何もしてやれなかった事を思い出し、亜夢にその姿を重ねていた。その時の悔いを藤川夫妻は抱えている。
今となっては、実世の心身は衰弱しきっており、インナーミッションに耐え得る確証がなく、その対象者からは外されていた。

「わかった…検査データをこちらに回してくれ。ミッションプランを検討する。」

「頼むわ、コウ。」

通信を切る藤川所長。
光学モニターの画面が変わる。その背景写真は若き日の実世と生まれて間もない真世。

「実世…」口から溢れ出す娘の名。藤川の手は、ホログラムで形成されたモニターの中へと引き寄せられる。慈しむように映像の娘に
その手を添えた。

娘に残された時間がどのくらいあるのか、藤川にもわからない。

「そうだな…救える可能性があるならば…。」

その娘から、藤川は背中を押されたような気がした。

藤川は、机の引き出しからブランデーのボトルと小さなグラスを取り出し、グラスにブランデーを注いだ。
グラスを片手に夜風に誘われるままバルコニーに出る。

晴れ渡った夜空に星々の輝きが広がる。
海は静かにその吐息のように波を繰り返す。

悠久の時を幾多もこの生命の脈動を続けてきたのであろう…

人の生涯など、この時の中の僅かな幻でしかない。
その中で肉体を持ち、喜び、悲しみ、時に傷つき、傷つけ人は生きようとする。

永遠に近い魂という存在について、PSI科学はその実像を明らかにしつつあったが、何故人は生まれてくるのか、その意味は何なのか…その問いにはまだ答えは見つかっていないのだ。

藤川は、グラスを静かに傾ける。

「だが…それを見つけるために生があるのだ…」

生きている限り、生をつなぐ。
それが今この時を生きている者の使命なのだと、藤川は心に刻み込んだ…。

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